平成15年度 講 演: 「江戸の文化と教育」
講 演: 「江戸の文化と教育」
講 師: 東京学芸大学人文学科歴史学研究室 大石学 教授
日 時: 平成15年10月30日(木) 14:00~15:30
会 場: 附属図書館3階視聴覚ホール
目次
I「平和」の到来と文字社会
1.「平和」の到来
2.兵農分離の社会-武士の官僚化と村落自治-
3.教育への関心
4.経済活動の活発化
II 将軍吉宗の教育政策
1.8代将軍吉宗(1684~1751)の享保改革(1716~45)
2.官僚制の整備と公文書行政
3.文書主義の浸透-記憶から記録へ-
III 国民教育の普及と文化の発達
1.寺子屋の普及
2.寺子屋師匠と教育方法
3.教育の普及と識字率
4.江戸の文化
5.外国人の評価
「江戸時代の教科書-往来物展」によせて
ご紹介いただきました大石です。これから1時間半、「江戸時代の文化と教育」というテーマで、お話をさせていただきます。よろしくお願いします。
本日から東京学芸大学附属図書館で「江戸時代の教科書-往来物展-」という展示会が開催されており、これによせて話のテーマを設定しました。私も一昨日、準備段階で展示資料を見せていただいたのですが、本学の図書館にこれほど多くの貴重な資料が所蔵されていたのかと、あらためて驚いた次第です。これらの資料を社会に広く知ってもらう機会として、今回の展示会はとても有意義だと思います。今日の話がどこまでお役に立てるかわかりませんが、私なりにこれらの資料が成立した背景となる江戸時代の教育と文化を紹介させていただきたいと思います。以下、プリントの順に話しますので参照してください。
さて、往来物というのは、平安時代末期(11世紀後半)以後、明治初年(19世紀後半)に至るまで、約800年にわたり広く使われた、書簡すなわち手紙の文体で記された初等教科書のことです。ここでの往来とは行って帰ってくること、書簡・手紙をいいます。手紙の文章を手本に、字の書き方や読み方を学んだわけです。『国史大辞典』の「往来物」の項目には、「江戸時代になると、寺子屋の普及、庶民教育の発達に伴って、地理・歴史・産業・経済などあらゆる方面にわたる日用の知識を、その文字とともに、教えるのに往来の形式をもってした」と、手紙の形式で文字と知識を教えたことが記されています。
ただし今日の話は、往来物についての詳しい話ということではありません。往来物などを通じて江戸時代に庶民教育が非常に発達したわけですが、これらをとりまく当時の文化・教育環境を見ていくことにしたいと思います。
はじめに-江戸時代像の変化-
江戸時代といいますと、時代劇がイメージされます。昔の時代劇の代表はチャンバラでした。正義の味方が、悪人に取り囲まれ、次々と斬っていくというものです。しかし、最近の時代劇は、家族、親子、兄弟、恋人など、人と人との関わりが中心的なテーマになっています。これは今日、江戸時代が、われわれの時代と連続した時代としてとらえられつつあることともかかわります。通常、日本の歴史は、古代(~平安時代)、中世(鎌倉・室町時代)、近世(安土・桃山~江戸時代)、近代(明治~戦前期)、現代(戦後期)と区分されます。現在の私たちの生活がどの時代に基盤をおいているかと考えた場合、従来1867年の明治維新が、文明化、近代化の起点として重要視されてきました。これ以前は、サムライが髷を結い、裃を着て、刀をさしてと、われわれの理解できない遠いチャンバラの時代として語られてきたわけです。しかし、最近は、江戸時代は私たちの時代につながる理解可能な時代という考え方が強まっています。この400年、もう少し前の戦国時代も含めて、江戸時代を近代の前提として見た方がよいのではないか、という考え方です。先ほどの時代劇の変化も、実はこうした研究動向と深く関わっているように思われます。
さて、16世紀末に戦国時代を統一したのは豊臣秀吉でした。秀吉は武力で全国を統一したイメージを持たれますが、むしろ実態は、できるだけ戦争をせずに、穏便に統一しようとしていました。すなわち、戦国大名同士の争いを「私戦」として禁止したのです。これを「惣無事(そうぶじ)」政策といい、大名が降伏したり、あるいは和平に応じた場合、領地を保証したのです。この「惣無事」政策は徳川氏も引き継いでいます。その結果、265年間の江戸時代=「平和の時代」が出現しました。古代ローマの平和を“Pax Romana”(パクス・ロマーナ)、近年のアメリカによる世界秩序を“Pax Americana”(パクス・アメリカーナ)と呼びますが、それらと同じように江戸幕府が武力を独占して、対外戦争や内戦が無い時代を作りあげたのです。これを、“Pax Tokugawana”(パクス・トクガワーナ、徳川の平和)といいます。
中世から近世への変化は「未開から文明へ」ととらえられますが、この変化こそ日本の歴史で一番大きな変化だったと考えられます。これに比べると、明治維新の変化は、より小さな変化だと思われます。もし、日本の歴史を大きく2つに分けなさいと言われたら、これまでは明治維新の前後で、近代と前近代として分ける人が多かったのですが、最近は、中世と近世の間で切る人も多くなってきています。
中世から近世へ、戦国時代を挟んでどのような変化があったのか、その一つは神や仏の力の衰退です。それまで土地争いや水争いなど、村と村が対立したり戦争状態になった場合、それぞれの代表者が出て熱湯に手を入れたり、焼けた火箸を握るなどして優劣を決めることが多くありました。現代から見ると非常に理不尽なのですが、それは神が見ている、仏のお告げだ、ということで双方が合意できたわけです。ただし代表者はこれにより手が不自由になり、家族にも負担がかかります。そこで、村の人たちはいろいろな補償をしました。しかし、この時期、神や仏に力があったから紛争はそこで収まったわけです。同じように当時は借金をするときなども神や仏が見ている、聞いているわけですから、証文は作らなくてもすみました。お互いが約束すればそれで貸借が成立したわけです。神罰や仏罰が怖いので、きちんと約束を守り、借りたものを返す社会でした。しかし、戦国時代を通して、信長の比叡山焼き討ちなどで知られるように、神や仏の力がどんどん衰退してきます。一生懸命祈っても拝んでも思うようにならない、ということになるわけです。これに代わり、統一国家、公儀権力が生まれてきます。国家、公儀は、もめごとがあった場合は、自分たちで決めずに公儀に訴え出るよう指示します。神や仏に代わって国家・公儀が裁くスタイルになるわけです。これに応じて、人々は訴訟に勝つためにさまざまな証拠を作り残すようになります。文書が大量に作成される時代の到来です。
また、神や仏のみならず自然との関係も変わります。中世までの集落は、谷あいの山に抱かれた場所に形成されることが多くありました。平野部の川は、利根川、鬼怒川、木曽川など、いずれも暴れ放題でした。年貢は奈良・京都などの荘園領主や地域の土豪に納めていました。自然に抱かれて、自分たちが毎年食べるだけのものを最低限作るような生活をしていたのですが、戦国時代になると地域を統一的に支配する戦国大名が出現しました。彼らは河川をコントロールし、新田を開きました。堤防を作り、河川敷を新田にすれば、生産力が上がり、隣の大名たちとの争いが有利になるわけです。
中世から近世への変化は、人々が山あい・谷あいから平野部に進出することでもありました。象徴的には、中世までは山城といって、城が山にある臨戦体制だったのですが、江戸時代の城は平城になります。松本城、姫路城、大坂城、江戸城など、みな平野部に造られます。これは戦争のためというよりも、領国内をコントロールする役所、行政府としての機能をもったことを示しています。
以上、自然に抱かれて生活していた古代・中世の人々とは異なり、江戸時代の人々は自然をコントロールするようになったのです。神仏・自然に抱かれた時代から、人間が自らの力を信じる時代へ、これが中世から近世への大きな変化でした。こうした時代は、現在まで続くわけで、江戸時代と現在は断絶した時代ではなく、連続した時代として捉えられることになります。「未開から文明へ」といわれますが、戦国時代に神仏や、自然に抱かれた時代から、人間が自立し、主体的に経済活動を行ったり、文字を普及させたりする文明社会への転換を見ることができるのです。
平川新「なにが変わったのか / 90年代の近世史」(『歴史評論』第618号、2001年)は、最近の江戸時代像の変化を「封建からearly modernへ」と表現しています。江戸時代について近代と断絶した封建制という認識から、初期近代(early modern)という見方に変わってきたことを指摘しています。以下、この視点から江戸時代を3期にわけてお話します。すなわち、Ⅰ 江戸時代前期の「平和」の到来と文字社会について、Ⅱ 江戸時代中期の将軍吉宗の享保改革の教育政策について、Ⅲ 江戸時代後期の庶民教育の発展を支えた教育環境・制度です。
I「平和」の到来と文字社会
1.「平和」の到来
まず第Ⅰ期「『平和』の到来と文字社会」です。先ほど言ったように、豊臣秀吉は戦国時代を「惣無事」の論理で統一したわけですが、江戸時代前期に三浦浄心は、著書『見聞集』で次のように述べています。「廿四五年以前迄諸国におゐて弓矢をとり治世ならす、是によつて其時代の人達は手ならふ事やすからす、故に物書人ハまれにありて、かかぬ人多かりしに、今ハ国治り天下太平なれハ、高きもいやしきも皆物を書たまへり、尤筆道ハ是諸学のもとといへるなれハ誰か此道を学ばさらんや」(『改訂史籍集覧』第10冊、臨川書店、1983年、p.90)、すなわち、24、5年以前の戦国時代は諸国で戦乱が絶えなかったため、人は手習いをせず、ものを書く人がほとんどいなかった。しかし今、平和になったので、身分の高い人も低い人も、皆ものを書くようになった。浄心は平和が教育や学問にとって大切であり、人々は武具から筆具へと道具を換えた、と指摘しているわけです。また将軍吉宗の時代、享保年間(1716~36)に成立した財津種爽(たからつ しゅそう)の『むかしむかし物語』では、「昔は一箇年に一両度も五七度も、夫刀よこせ鑓よ杯云、下々も刀を差、尻はしおる騒ぎ事ありしが、近年は夫刀鑓よと云程の騒何事にもなきゆへ、今の若き衆家内にて丸腰などにて、随分油断なる躰、まことに弓を袋に納たる、戸ざざぬ御代共いふべき」(『続日本随筆大成別巻・風俗見聞集1』吉川弘文館、1981年、p.62)と、以前は一年間に何度も刀を取る騒動があったが、最近は平和になったと述べています。当時の人が平和の時代になったことを十分に認識していたとことがわかります。
「徳川の平和」と関連して、江戸時代社会の特徴に「兵農分離」制がありました。江戸時代=近世は、一般に武士の世の中といわれますが、中世の武士と近世の武士は大きく異なります。すなわち、中世の武士は百姓と武士を兼ねる存在でした。謡曲『鉢の木』にあるように、普段は農業を営み、いざ戦いというと鍬を捨てて出陣する存在だったわけです。いわばパートタイムの武士でした。それが戦国時代を経て、プロフェッショナルとしての武士身分が確立します。プロの武士とプロの百姓に身分が分離するわけです。もちろんパートタイムの軍隊よりも、プロフェッショナルの軍隊の方が強く、兵農分離の速度が最も早く、強力な武士団を作ったのが、織田信長や豊臣秀吉でした。これが天下を取る要因になったのです。兵農分離を農業経営から見ると、中世の武士は、一族の者たちを下人や所従など隷属的な状態に置いて大規模経営をしていました。戦国時代、この農業経営はそのまま戦時体制に移行しました。すなわち、農業のリーダーが騎馬に乗り、周りを隷属的な人たちがかためるというスタイルです。戦国時代の一騎討ちは、まさに農業経営のリーダー同士の争いでもありました。兵農未分離段階の武士たちは当然のことながら、戦争をしながら田畑のことが気になります。ここで命を落としても、怪我をしてもたいへんですから、当時の戦争は、いわれるほど激しくなかったようです。川中島の合戦の犠牲などもそれほど多くはありません。むしろ信長以降、専門の軍隊ができあがってくると、兵糧補給路が整備され、交通が発達するなど総力戦となり犠牲者はふえます。
その後、近世の平和の到来とともに、武士たちは行政マンとして活動することになります。奉行・代官など幕府や藩の仕事を行うことになります。外見は刀を差して、髷を結っているのですが、実際の仕事は算盤を弾いたり、文書を作ったりなどの事務です。他方、農民は農業に専念します。武士は城下町に住み、めったに農村に行かなくなります。武士がいなくなった農村では、農民が自分たちのことを自分たちで決めるようになります。兵農分離以後、武士は官僚化し、行政マンとなる一方、農民は自分たちの生活や生産を、自らが管理する自治組織としての村を形成し、これを運営するようになるのです。
2.兵農分離の社会-武士の官僚化と村落自治-
さて、官僚化した江戸時代の武士たちは、村の運営は農民にまかせ、村からは年貢が滞りなく入ればいいという立場になります。これら武士と農民の間を取り持つものは何かというと、それは文書です。ある旗本が多摩地域に知行所を持った場合でも、自分は江戸に住み、支配は文書によって行います。先ほど近世社会は人間が神仏や自然から離脱したと言いましたが、社会構造の上からも文書なしでは支配できない状態になったわけです。三河の豪農が元禄時代(1680~1709)に執筆した農書『百姓伝記』には「分限相応に手習をいたさせ、そろばんをならはせて」と記されています。村に生きる人たちは、身分にふさわしい知識、教養を持っていないと村社会の中で生きていけず、村落自治を担うことができなかったのです。また上野国高崎藩士の大石久敬は、寛政年間(1789~1801)に農政書『地方凡例録(じかたはんれいろく)』を著しました。その中に「庄屋・名主濫觴録(らんしょうろく)」という項目があり、ここで庄屋になる資格・条件として、「筆算も相成ものを」と、読み書きをあげています。学力、教養を備えた人が地域社会のリーダーになるべきという認識が見られるわけです。さらに、元禄時代(1680~1709)の井原西鶴の『西鶴織留』には、大坂で生活していた夫婦の話があります。彼らは年をとり田舎に移り、「少し手を書を種として、所の手習子ども預り」と、塾を始めた。いろはの「い」から基礎を教え始めたが、結局自分たちも勉強不足のため、知らないことを聞かれると、毎回大坂に聞きに帰った。「庄屋殿より度々たづね給ふに」と、物知りの庄屋からもたびたび聞かれて、あわてて大坂に帰ったとあります。後半には「一つ一つありのままに書付る筆者は、五町七丁のうちにもなき事なりしに、今時は物書かぬといふ男はなく」と、昔は文書を書く人が、五~七町ほどにも、あまりいなかったが、今は、書かない人はいないとも記しています(石川謙編『日本教科書体系・往来編・第12巻産業Ⅰ』講談社、1977年)。この話から、都市から農村への教養・文化の伝播のようすとともに、農村における教育への関心の高さ、知識の浸透ぶりが窺えます。
すなわち、江戸時代の農村社会は、えらい人が一人いて、皆がその人の言うことを聞いたという姿ではなく、農民の多くが教育や教養に高い関心をもち、村社会全体を底上げする方向にあったことが指摘できます。
3.教育への関心
次に、「教育への関心」に話を進めたいと思います。正徳4年(1714)成立の『寺子教訓書』には、「仰書筆之道者、人間万用達之根元也」と、読み書きは人間が万用を達するための根元であり、「無筆乃輩者、得盲者之名、不異於木石畜類」と、読み書きのできない者は木や石や畜類と同じであると記されています。また、「於異国人生八歳之時初而入小学門、本朝凡従九歳十一歳手跡入学世の風俗也」と、「異国」が中国、朝鮮あるいはヨーロッパを指すのか分かりませんが、外国では8歳で学校に入るが、日本では9歳あるいは11歳くらいで入ると、外国と比較した教育論が記されています。勉強をしっかりすると、喧嘩をせず、きちんと挨拶するようになるなど、しつけに役立つとも記されています(石川謙編『日本教科書体系・往来編・第5巻教訓』講談社、1977年)。
また、医学に詳しい儒学者の貝原益軒が宝永7年(1710)に記した『和俗童子訓』には、「六七歳より和字(かな)をよませ、書ならはしむべし、はじめて和字ををしゆるに、『あいうゑを』五十韻を、平かなに書て、たてよこによませ、書ならはしむ、また世間往来の、かなの文の手本をならはしむべし」と、小さい内からしっかりと教育すること、7歳、8歳、10歳とそれぞれに適したことを教えることが大切と記されています。最終的には小学、四書、五経という儒教の基礎を勉強させるべきと述べていますが、これは発達段階に応じた教材、往来物の利用ということで注目されます。
益軒の弟子の医師の香月牛山(かつきぎゅうざん)は、元禄16年(1703)刊行の著書『小児必要養育草』において、「また近きころは、女の童をも、七、八歳より十二、三歳までは、手習い所につかわすなり」と、当時女子教育が盛んになったことを記しています。つづく部分では謡をしっかり習わせた方がよいとも述べています。これは「都鄙ともに符節を合わせたるがごとくにして、相替わる事なく」と、都会、田舎でも全く同じであり、「古今不易の音楽なれば、知らぬはかたくななるべし」と、知っていい教養であるからと理由を述べています(山住正己・中江和恵編『子育ての書1』東洋文庫、1978年)。すなわち、都市の文化だけが発達し、農村が取り残されるという状況ではなく、先ほどの西鶴の話も含めて都市と農村の交流が、江戸時代にかなり深まっていたことが知られます。
4.経済活動の活発化
文化交流の背景には、経済活動の活発化があります。元禄時代は、庶民を相手に新しいタイプの商人たちが成長した時代でした。たとえば、三井、鴻池、住友などは、元禄時代に、武士だけではなく庶民をターゲットに資本を拡大した商人たちです。農民も生産力が伸びると、年貢以外の余剰米を市場に出し換金し、自分たちの生活を豊かにしました。米以外の特産物や野菜類など商品作物の栽培も広く行います。
商人による経済活動の活発化は、契約や計算の知識を必要とし、さらに経営を安定させるために家訓を定めるなど、社会を合理化させ、教育の需要を高めました。それに対応して『商売往来』などのテキストも普及しました。たとえば『商売往来』には、「凡、商売持扱文字」と、商売に必要な文字として「員数、取遣之日記、証文、注文、請取」や、「大判」、「小判」、「壱歩、弐朱」、「貫、目」、「雑穀、粳、糯、早稲、晩稲、古米、新米」などの文字があげられています。最後には、「歌、連歌、俳諧、立花、蹴花・・・家業有余力折々心懸可相嗜」と、生活に余力があれば、歌や俳諧などを習うとよいともあります(前出『日本教科書体系・往来編・第12巻』)。芸事や教養も大事というわけです。子どもたちは、これらの文字やその意味を読み書きしながら修得していったのです。このほか、三井越後屋は奉公人を雇うさいに、「手跡算盤又は弁舌等疾と吟味可申事」と、書くことやそろばん、さらに弁舌が商人にとって大事な能力として試験をしています。
一方、江戸時代前期には農書が多数成立します。江戸時代を概観すると1660年代を境に、成長期から停滞期に移行します。慶長8年(1603)に江戸幕府が開かれましたが、4代将軍家綱の頃まで新田開発が進み、耕地は3倍に増え、人口は2.5倍になります。鎖国体制のもとでこれを達成するのは、大変なことです。現在、耕地を3倍に増やせ、人口を2.5倍に増やせといわれても、私たちにおそらくそのパワーはないと思います。耕地を3倍に増やすと、災害が多発します。少子化問題に見られるように、とても人口は2.5倍も増やせない。しかし江戸時代は、海外との交流を大きく制限された環境のもとでこれをやってのけたのですから、当時大変なエネルギーが列島社会にあったと改めて思います。江戸前期においてこのように耕地が大開発されるのですが、さすがに1660年頃になると飽和状態になります。これ以上開発すると、もう乱開発となり、資源はなくなり河川も荒れると、儒学者の熊沢蕃山は開発反対をとなえます。尾張藩は木曽の山には一切入ってはいけないと命じ、島崎藤村の小説『夜明け前』の前提ができあがります。こののち日本の農業は、耕地面積の拡大から単位面積あたりの収穫量増大へと方向転換します。耕地に多くの労働を加え、肥料を投入し、土地を改良するなど現在に連なる日本型農業に変わるわけです。大開発から精農主義へと転換が見られたわけですが、その際頼りになるのはテキスト、農書でした。『清良記』、『百姓伝記』、『会津農書』、『農業全書』、など多くの農書が成立し、印刷され流布されました。人々はこれを読みながら、いつ種を蒔いたらよいか、どのくらい水をやったらよいか、寒いときはどうするのか、肥料は何がよいかなどさまざまな知識を得たのです。
このように江戸時代前期、新しい社会体制のもとで、武士、農民、町人ともに、文字や教育への関心を高めていったのです。
II 将軍吉宗の教育政策
1.8代将軍吉宗(1684~1751)の享保改革(1716~45)
第Ⅱ期は8代将軍吉宗の教育政策ということになります。江戸幕府には15人の将軍がいますが、その8番目が吉宗です。この吉宗が行った享保改革をどのように位置づけるのか、難しい問題ですが、私は今のところ大きな政府、強い政府による権力の国家的集中・統合の政治ととらえています。吉宗は高負担・高福祉の国家、すなわち国家が社会の隅々まで網の目をめぐらせて、統制する体制を目ざしました。具体的には江戸の首都機能を強化し、官僚システムを整備します。この間尾張藩主の徳川宗春は、自ら理想とする政治を展開し、吉宗と対立して引退させられます。この直後吉宗は全国の大名たちに対して、家老のいうことを聞くこと、自分勝手な政治をしないことを指示します。これをうけて家老や官僚らは、藩を越えてお互い連絡しあい、日本の政治の均質化が進みます。官僚主導の政治になるわけです。ですから、江戸時代前期の「名君」は、水戸黄門、岡山の池田光政、会津の保科正之など儒学者をブレーンにして、自ら理想とする政治を展開しますが、後期の「名君」は、米沢の上杉鷹山、肥後の細川重賢、松江の松平不昧など官僚とタイアップします。官僚抜きには「名君」になれない。江戸時代は官僚が政治家を上回る時代でもあるのです。
吉宗は、規制強化も行います。江戸前期の高度経済成長時代から停滞時代に入ると、ここで二つの考え方が見られます。一つは経済が停滞したならば、それにふさわしい生活の仕方へと社会を変えればよいという考え方です。これは現在でも、何も夜通しコンビニを開かなくてもよい、夜通しテレビがうつらなくてもよい、これ以上日本経済がよくならないならば生活を変えればよい、という主張として存在します。それに対して、夢よもう一度という考え方があります。公共事業の拡大、民間活力の導入などにより、もう一度高度成長を目ざすという考え方です。先の尾張宗春は税金を安くし、商人や遊女を集め、日本列島が真っ暗な中で名古屋だけ明るい灯がともるという積極政治を展開し、吉宗からたたかれてしまうわけですが、そういう考え方もまた存在するわけです。吉宗は前者の立場で、低成長にふさわしい生活に変えていこうという考え方です。このような政治は、当然のことながら規制強化をともないます。ぜいたくは許さないし、個性も認めません。国家が社会の隅々まで管理する厳しい政治になります。自由よりも平等が尊重され、弱者は救済されます。このため豊かな人からは、税金を多く取る。そういう社会になります。
これと関連して、吉宗は紺屋の組合、菓子屋の組合、小間物屋の組合など、業種別に組合をつくらせます。業界が成立するわけです。吉宗はこれらのグループを通じて物価統制を行います。すなわち、国家が市場に介入するわけですが、吉宗はこれにより社会秩序が保たれ、生活が安定すると考えたわけです。暴利をむさぼる人や粗悪な品物を売る人がいない、皆が同一の品質を、同一価格で買える社会にしようとしたのです。ただし現実には物価は市場原理、需要と供給のバランスにより決まるわけで、吉宗は物価政策で四苦八苦します。しかしその後の日本社会を見ると、吉宗の目ざした方向は大枠で達成され、日本経済は国家主導で発展することになります。吉宗の次に幕政を主導した田沼意次は、株仲間を作らせ、冥加・運上という形で業界からお金を取るようになります。政治家と業界の癒着が始まるわけです。
以上のように、吉宗の時期に、江戸一極集中、規制強化、官僚主義など、国家が社会を管理する方向へと大きくハンドルを切ったのです。今日の行政は、地方分権、規制緩和など、国家がどんどん手を引く方向で進められています。本学も来年4月から国立大学法人となります。小さな政府が目ざされています。日本型システムが壊されようとしているわけです。業界は税金を無駄にしているとして、自由競争・入札制度を導入しています。今日、江戸的なものがこわれていこうとしています。江戸東京400年を通じて形成され、明治維新を経ても変わらなかった政治の方向が、グローバル化の中で変わろうとしているのです。今日の小泉改革の課題は、まさにここにあり、したがって400年の歴史を背景にさまざまな抵抗があるわけです。
この時期、吉宗は将軍になると全国の人口を調査します。列島社会の人口を初めて全国規模で計算したのが吉宗なのです。すなわち、初代から7代将軍までは、日本列島に何人ヒトがいるかなどということは意識せずに政治をしていたわけです。吉宗は、調査によりカウントされた3,000万人の人口を対象に、初めて政治を行った将軍ということになります。同時に吉宗は、この列島社会にどれだけ資源があるかということも調べさせます。貴金属、植物、動物など、さまざまなものが書き上げられます。全国調査なので北の地域でAと呼ばれていたものと、南の地域でBと呼ばれていたものが、同じか違うか判断をしなければなりません。そこで絵を描かせて照合します。その一大図譜『諸国産物書上』が現在も残っています。この書上により、トキがこの時代に何処にいたか、この植物が何処に分布していたかということがわかります。現在と比較して、自然破壊の進行がわかる貴重なデータとなっています。このように吉宗の政治というのは、列島社会の北から南まで見渡した国家政策・公共政策という特徴をもっています。それまでの幕府の政治、藩の政治とは、一味違う政治でした。
さて、このような改革政治の中で、吉宗がどのような教育政策を展開したか。一言で言うと、古代以来の僧侶、貴族、あるいは武士など社会の上層階級を対象とした教育から、庶民・国民を対象とした教育へと転換したということです。江戸時代も初代から7代までの将軍は、儒学の中華思想、自分が中央で一番えらく、周りは野蛮人という思想にもとづき政治を行っていました。将軍自らが身を慎むと徳が備わる。すると周りの人は自分を慕い尊敬して、そこに秩序が生まれるという考えです。ですから、歴代の将軍たちは、行いを慎み、倹約を旨とします。
吉宗の教育政策も、将軍個人の修身を大切にしました。3食を食べる時代なのに、吉宗は2食でした。しかし吉宗の場合、同時に庶民・国民を視野に入れた教育政策を展開しました。現在から見ればあたりまえなのですが、重大な変化でした。考えてみれば将軍だけがりっぱで国民が無知というのは、かなり不安定な社会でして、国民が知識を備え、価値を共有すれば、社会は安定します。吉宗はそれを実践したわけです。たとえば、湯島の聖堂で幕府お抱え儒学者の林家が講義をしますが、偶数日は直参の受講日とし、奇数日は庶民に開放します。また八重洲河岸の高倉屋敷は、衣服専門の公家の高倉家が江戸に来たときに使う屋敷ですが、ここでは林家以外の儒学者に講義をさせて、連日庶民に開放します。享保6年(1721)には、儒学の徳目をまとめた中国の清王朝の教育勅諭『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を解説した『六諭衍義大意』を刊行させ、これを町奉行の大岡越前守忠相が市中の寺子屋の師匠に手本として用いさせています。教科書として配ったわけです。同じく享保6年には、千住島根(足立区)の手習師匠が、幕府法令を手本に手習いをさせていることを褒めて、これを各地で実施することを奨励します。同8年に、儒学者の菅野兼山が目安箱に投書して塾を開きたいと願ったさいには、土地と資金を供与します。これについて大坂の儒学者の中井竹山は、「始て平民迄講習の所を得たり」(『草芽危言』)と、平民を対象とした初めての学問所と評価しています。先ほど言った「庶民・国民を視野に入れた教育」と、当時の知識人も認識していたのです。大坂では庶民たちがお金を出しあって「懐徳堂(かいとくどう)」という塾を作りますが、吉宗はこれを準官学として保護します。
このように吉宗の教育政策は、幕府が主導しながら、あるいは幕府がバックアップしながら庶民教育をリードする方向で進められました。幕府天文方の西川如見が享保6年に著した『百姓嚢(ひゃくしょうぶくろ)』では、「百姓といへども、今の時世にしたがひ、をのをの分限に応じ、手を習ひ学問といふ事を」すべきと記されています。幕府官僚もまた、国民が皆学問をしなければいけないと考えていたのです。先ほど、近世前期に平和が到来し、人々が文字や教育への関心を高めた話をしましたが、吉宗の時代になると、こうした動向を国家が吸い上げて、国家主導のもと人々に知識を与えていく、という形になってくるわけです。
2.官僚制の整備と公文書行政
さて、「大きな政府」は必然的に官僚機構を肥大化させます。この過程で吉宗は、それまでの家格制をこわして、能力主義・実力主義を採用します。「足高(たしだか)の制」は、その典型です。江戸時代は、本来家格と役職が相応する社会でした。老中や若年寄など重要なポストに就任するのは、井伊、本多、水野など限られた家に決まっていました。限られた家の中に人材を求めるのは無理があります。安定期はいいのですが、変動期には政治的な対応をしなければいけない。家格が低くなるほど、当然家の数は増えます。統計的にみても、優秀な人材は家格が低い方に多くいるわけです。5代将軍綱吉は、側近政治を採用して柳沢吉保や牧野成貞など家格が低い者たちを抜擢しました。6代将軍家宣も、新井白石や間部詮房を登用したわけですが、これを制度化・システム化したのが吉宗の足高の制でした。たとえば、300石の旗本が、3,000石格の町奉行に就任した場合、衣服、家臣、接待、付き合いなど、膨大な経費がかかります。このためにその職にいる間は2,700石をプラスする、というのが高を足す制度、足高の制です。
勘定所は今でいう財務省と農水省を合わせたような巨大な役所ですが、京都町奉行所の与力を勤めた神沢杜口(かんざわとこう)の随筆『翁草(おきなぐさ)』によれば、「御勘定所の勤こそ少しの働も際立て立身も足早なれ」と、少し働いただけでも目立つからどんどん出世する、「享保の以後御勘定奉行」になった人を見ると、「杉岡佐渡守、細田丹波守、神谷志摩守、神尾若狭守、荻原伯耆守の類、各軽士・農民より出たり」と、身分の低い人たちが多く勘定奉行になっている、「此外にも多く有べけれども、一々考るに不遑、是其筈の事なり。其所以は古来当役は五、六千石の分限の面々へ仰付られし事なれども、中頃諸役御足高を被定し砌」と、昔は5、6千石の旗本がこれを勤めていたが、足高の制を施行するさい、「当役も三千石高に成ぬれば、持高小身の面々も器量次第自由に御役勤る故、御勘定の諸士一統に励みて」と、役高が3千石となり、小禄の者も就任しやすくなり、自由に仕事ができるようになり、皆一生懸命仕事をするようになった、と記しています。この結果、「平勘定は組頭に成ん事を欲し、組頭は吟味役を望み、吟味役は奉行を羨み、相倶に進転せん事を励むに仍り、近世他役より此へ転ずるは希にして、多くは平勘定より段々上り、奉行迄も進む故に、右に記する面々も皆其類なり」(『日本随筆大成』第3期21、吉川弘文館)と、平勘定は努力し成果をあげれば組頭になれる、組頭も頑張れば吟味役になれる、さらに奉行にもなれる、こういう昇進ルートが開かれてきた。だから皆一生懸命働き、他の部署から横滑りで入ってくるような役人はいなくなった、と述べています。すなわち、吉宗の政策は、身分制に風穴を開け、実力主義を持ち込み官僚制度を整備した点で非常に大きな意義を持つわけです。
そしてこの官僚制度を支えたのが公文書システムでした。家格制の時代は、そのポストに就く家が限られていましたから、各家は家伝として役職に関する知識を伝えていました。たとえば、高家の吉良家は、室町時代以来のさまざまな儀式典礼の知識を家に伝えていました。吉良家は謝礼を貰って教えるのが役目だったわけです。こうしてみると、吉宗以前の元禄15年(1702)の赤穂浪士の討ち入りは、浪士側に分が悪くなります。すなわち、巷間言われているように、もし浅野内匠頭が吉良にお礼を少ししか出さなかったとしたら、少ししか教えてもらえず、恥をかくのは当然ということになります。いわんや、それを四十七士が、よってたかって討ち入ったとなれば、とんでもないということになるのです。
次に、公文書と官僚との関係について見ますが、享保8年(1723)8月「御勘定所勤方之覚」によれば、勘定所が「諸書物帳面」を近き年より段々に仕分けて、目録を作ったことが記されています。「其外御多門に有之分も右同前にしらへ置可被申聞候」と、江戸城内各所の帳面も同様に調査しています。さらに、「諸書物混雑無之、平生見合に可入書物等は仕立置、怠慢無之様に可被相心得候」(『日本財政経済史料』第4巻上)と、公文書を混雑させず普段からすぐに参照できるように、きちんと仕立てておき怠慢が無いようにとの指示が出されています。今日、区役所や市役所などでは、大量のファイルが並んでいます。誰がそのポストについても、その日からファイルを使って仕事をすることができるわけです。官僚制の特徴は個性を出さない、恣意を働かせない、ということです。吉宗の公文書整理の方向が見えてきます。この調査の結果、吉宗がカウントした公文書の数は、諸帳面が94,200冊余。江戸城の中にある公文書の数が、初めて計算されたわけです。94,200冊の公文書が江戸城の中にバラバラにあった。吉宗はこれを、全部リストにして行政に生かしていくことにしたのです。
こののち延享2年(1742)9月の触では、「諸帳面書物調之事」とし、「前々者致混雑旧例見合之儀早速難成候處、享保八年卯年より有来諸帳面諸書物、年分ケ類分ケ郡分ケ等に致し置旧例見合に無差支様に仕候事」(『日本財政経済史料』第8巻下)と、享保8年から公文書が整理・分類されたので、昔のことがすぐにわかるようになったと記しています。すなわち、吉宗の公文書整理によって行政効率が非常に高まったのです。
その後、寛政改革(1787~93)のさいには、公文書の保存・廃棄・再生の問題が起こります。今日の私たちの生活でも、すぐ物や本がいっぱいになって、どれを捨てようか悩むわけですが、江戸城も同じでした。とくに江戸城の場合はやっかいで、やたら捨てればいいわけではありません。国家機密情報がたくさん含まれているのです。そこで文書を焼いたり埋めたりする案も出るのですが、資源を再利用しようと紙漉き屋に頼むことになります。ただし、うかつな紙漉き屋に渡すと情報が社会に流れる可能性があります。結局、石川島の人足寄場、無宿者などを収容した社会更正施設ですが、そこで紙漉きを行わせることになります。当時の人足寄場の責任者は、火附盗賊改の長谷川平蔵宣以(のぶため)、鬼平です。鬼平のところへ持っていき漉き直しをさせるわけです。それでも漉き直す前に文書を読まれてしまうおそれがある。そこで大事なところを墨で塗ることや文書を引き裂くことが検討されます。これはたいへんな仕事で、毎日毎日、人間シュレッダーで引き裂くのですが、その仕事をだれも評価してくれないと担当者はぼやいています。このように文書の廃棄、保存が、寛政改革の中で問題となったのです。
吉宗の時代に戻り、元文元年(1736)4月の勘定奉行への達には、「いささかの事ども、文書もてとり扱ふゆへ、事になれざる輩は、文書を専らとして実意をうしなひ、そが上無益に日をついやし、要とすべきことは、かへってをろそかになれば奉行等よく心して取扱ふべし」(『徳川実紀』第8篇p.722)と、代官たちに何でも文書にして出すように指示したところ、代官たちは本来の仕事を忘れて、一生懸命公文書ばかりを作っている。無益に時間を費やし、本来の仕事が、かえって疎かになっている状況が記されています。これは今から20年くらい前に、ワープロやコンピュータが、会社や役所に本格的に導入され、それに適応できない人たちが悩んでいた事態を思い起こさせます。江戸時代、ペーパーレスの時代からペーパー化の時代への移行があり、代官たちも大いに悩んだのです。彼らは、書き出しを一筆啓上で始めたほうがいいのか、一札の事がいいのか、恐れながら書付をもってというべきなのか、悩みました。そのために、本来の仕事がおろそかになっていると、怒られたのです。現在ペーパーレス化、情報化、IT化が進められていますが、ペーパー化の時代は江戸時代以来、今日まで続いたといえるのです。
最後に、こうした公文書システムの整備の背景にあった思想をみておきます。吉宗のブレーンの1人である儒学者の荻生徂徠は、吉宗への献策書『政談』において、どのような役目にも、頭役・添役・下役・留役の4段階のポストを作れと言っています。部長・課長・係長・係員のようなものです。重要な役でなければ、添役を置かなくても、あるいは添役・下役を置かなくてもよい、と書いてあるのですが、どのような時も留役は外されません。留役はどのような役かというと、「留役は軽き役にて、一役の事を帳に書留さすべし」と、留帳に記録する書記官なのです。すなわち、書記官は必ず置くようにというわけです。つづけて「何の役にも留帳これなく、これ宜しからざる事也」と、書記官が書いた留帳が無いのはよくないと述べ、「大形は先例・先格をそらに覚えて取扱う故に、覚え違いある也」と、記憶を頼って仕事をしていると間違いが起こる、留帳にきちんと分類しておけば、手間を取らず、すぐにわかる。最近は「その役に久しき人」が内緒でメモをしているが、自分用のメモなので、「多くは甚だ秘して同役にも」見せない。「手前の功ばかりを立てんとす。新同役出来すれば、我に手をさげさせて少しずつ教えて、いつまでも我が手に付けんとする事当時専ら也」、すなわち、同役ができたら、少しずつ教えて頭を下げさせる、そうするといつまでも一人立ちできず先輩を頼りとし、手下のようになってしまう。これは非常によくないと徂徠は言っています。徂徠は、「留帳ある時は、新役人もその帳面にて役儀の取扱い相知るる故に、御役仰付けられたる明日よりも役儀勤まるべし」と、公文書が幕府に整備されていれば、そのポストに就いた翌日からきちんと仕事ができる。それが無いから、手下になってしまうと述べています。徂徠はさらに、公文書は「真字」、漢字で書くようにとも記しています。日記は皆、カナで書くので、くずし文字で読みづらい。これは私たちも経験するところで、くずし文字は個性が出て非常に読みづらい、それを漢字に統一すればよいと言っています。公文書は現在、ワープロやパソコンで作成されるようになり、文字に個性がなくなり、読みやすくなっています。
以上のように、吉宗の時代には、記録や情報に関心が高まり、幕府は情報蓄積システムを構築するようになりました。文書が整理され、目録が作成され、そのポストに誰が就いても以前からの情報を共有するという、行政の合理化・システム化が見られたわけです。
3.文書主義の浸透-記憶から記録へ-
こうした動向は幕府のみならず、この時期、社会でも広く見られました。たとえば、先ほどの『むかしむかし物語』には、「昔は用事の手紙取かわし」は稀で、「使にて口上」と、言葉で伝えていたことが記されています。「女中方も大形下女を使にて、用事口上に済む、文にて申遣す事」と、女中たちも同様でした。かつて、紙は近年の十分の一も使っていなかったとも記されています。「近年は口上に済事も、書状猶以上封じ致す故」「封紙迄入也、半切紙などは差てなく、六十年以前より半切の紙出る也」と、書状を書いてさらにその上に封をするので、紙が大量に使われるようになったとも指摘されています。今日手紙からメールに変わったのと同じように、伝達方法の変化があったのです。
多摩郡落合村(多摩市)の記録には、「尤老人之語り伝へし事は無証拠也」と、古老の伝承はなかなか信用されなくなり、紙に書いてあることが証拠になると記されています。村の古老が伝えることはあやしいと言われるようになる一方で、証拠に耐えうる日記や、記録が作成されはじめます(岩橋清美「近世における地域の成立と地域史編纂」『地方史研究』第213号、1996年)。近世中期に、古代、中世以来の音声や言葉が、だんだん力を失う一方、文書が社会に浸透する状況が見えてきます。こうした段階をへて、近世後期には寺子屋が普及し、新たな文化が発達していくことになるのです。
III 国民教育の普及と文化の発達
1.寺子屋の普及
江戸時代最後の時期の話になります。明治政府が編纂した資料(『日本教育史資料』)には、明治初期における全国約1万5000の寺子屋と1,500の私塾が書き上げられています。しかし実際には漏れがあり、その5倍程度はあったのではないかと言われています。ということは江戸時代最後に7万5000と6,500くらいの教育機関が存在したことになります。
伊勢国(三重県)の寿硯堂という寺子屋を対象にした研究を見ると、寛政4年(1792)から文政5年(1822)年までの約30年の間に643人の入門者がおり、地元の貧しい人から豊かな人まで各階層に及んでいます。周辺26町村から毎年20人くらい入門しています。入門年齢は7歳から10歳くらい、就学期間は2年から3年、10歳から13歳頃に修了し、男子140名、女子19名が奉公に出ています。奉公先は、伊勢国内のほか、江戸、大坂、京都が中心でした(梅村佳代『日本近世民衆教育史研究』梓出版、1991年)。
また上州勢多郡(群馬県)の寺子屋も各階層から就学していました(高橋敏『近世村落生活文化史序説-上野国原之郷の研究-』未来社、1990年)。近江国(滋賀県)では、村の男子全員が入門しています(柴田純「近世中後期近江国在村-寺子屋の動向-門人帳の数量的分析を中心に-」『日本社会の史的構成 近世・近代』思文閣出版、1995年)。とにかくたいへんな勢いで寺子屋教育が列島社会を覆っていった姿が見えてきます。
2.寺子屋師匠と教育方法
次に寺子屋の師匠と教育方法について見ます。信州(長野県)諏訪郡の例ですが、甲州(山梨県)巨摩郡から師匠をスカウトすることを願い、人物を保証しています。これは実現したようです(『長野県教育史・第8巻・史料編2』1973年、長野県教育史刊行会)。
また東京市の明治期の調査(「維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書」『明治教育古典叢書』国書刊行会、1981年)では、地域別に寺子屋の師匠を3つのタイプに分類しています。(1)まず江戸山の手です。今でいう新宿区東部、千代田区、港区、文京区などの地域です。この辺りは武家屋敷が多く、「此地ニ適スル師匠ハ比較上、稍々学力ヲ要スルモ」と、学力が必要だが、「算術ハ知ラズシテ不便ヲ感ゼザルニ似タリ」と、多少算術はできなくても構わないとあります。(2)次は下町です、中央区、港区の東の方、台東区、江東区などの地域ですが、そこでは「手本中、商売往来ノ如キハ甚タ必需」と、教科書として『商売往来』が不可欠で、職人用の往来の『番匠往来』もこれも必ず教えなければいけないとあります。他方、「算術ノ初歩ヲ教フルニ足レハ別ニ学力ナキモ甚シキ不可ヲ見ザルモノノ如シ」と、算術は初歩さえできればいいとも記しています。(3)最後は町の外れ、農村地域、江戸周辺地域ですが、ここでは『百姓往来』がテキストとして使われていると書いてあります。そして「此地ノ師匠ハ学力ノ有無ニ関セズ」と、学力があってもなくても、村人たちから「村夫子ト呼バレ」て尊敬されているとも記されています。地域や生徒の実情に応じた師匠や教科内容の違いがあったのです。
さらに教授方法ですが、当時師匠には特技がありました。それは「師タルモノ往々倒マニ文字ヲ書スルニ熟達スルコトニテ今ノ教師ノ企テ及ブベカラザルモノアリ」と、逆さに文字を書けるということです。その理由は、「是レ常ニ生徒ニ面シ」と、生徒と対面して正座し、「筆法ヲ授ケ即チ倒書スルヲ以テ知ラズ識ラズ此ニ至レルナリ、故ニ三四時間ニシテ少キモ三十人、多キハ五六十人ニ筆法ヲ授ケ終フベシ、若シ師ニシテ倒書ニ未熟ナランカ到底斯ク多数ノ生徒ヲ教授シ能ハザルハ勿論タリ」と、対面で授業し、30~60人並べて、逆さに字を書いて指導していたからです。これはなかなかたいへんな技術ですが、当時の師匠は、これができたわけです。
さて、当時も通学が嫌いな生徒がいて、さぼっています。「双紙ヲ湿スニ用水、若クハ河水ヲ以テシ通学セシ者ノ如ク装ヒ」と、紙をわざと濡らして通学したように装い時間を見計って帰宅することが記されています。これは、当時は物を大切にした時代ですから、紙が真黒になるまで何度も練習し、さらに真黒くなった紙に、今度は筆を水で濡らして書いていたことによります。生徒はこれを偽装工作したわけです。しかし、偽装工作は同時に親が教育熱心であったことも示しています。
九州の商人・正司考棋は、著書「学校考」(『日本経済大典』第34巻)において、教育が盛んになって困ったことがあると書いています。すなわち、「庶民ノ身ニ何ノ益ニモナラザル者ヲ、唯案文ヲ主トスルユヘ、年長ジテ案文ニ工ミニシテ口事訴訟ノ因トナル」と、やたら知識が多くなり裁判を起こす。すなわち、知識を得た人たちが、自分たちの権利を主張しだした。あるいは行政に対して要求を出すようになったというのです。昔はこのようなことはなかったとも書いています。
『佐賀県教育史・第4巻・通史編2』には、当時の勉強の仕方、8歳から13歳まで、ある生徒が使ったテキストが載せてられています。『以呂波手本』から始まって、『諸職往来』、『番匠往来』に至る、8歳から13歳まで5年間のテキストがわかります。
また、本学の学生の卒業論文の成果ですが、多摩において、南多摩地域では明治初年に学校が33校設けられ、その内19校、西多摩の場合は全25校の内12校で、寺子屋の教員がそのまま学校の教員になったことを明らかにしています。明治期の小学校制度は、地域の塾や寺子屋の制度をそのまま引き継いでスタートしているのです(佐野貴宏「多摩の寺子屋師匠」『多摩のあゆみ』第93号、1999年)。
別の学生の卒業論文によりますと、埼玉北部の例ですが、門弟が師匠のために立てた墓である筆子塚が同地域に153残されており、師匠159人が確認されています。この他慕われていない師匠や、どこかへ行ってしまった師匠などを加えると、たいへんな数の師匠がいたことがわかります(工藤航平「筆子塚等についての調査・研究-大宮台地北半を中心に-」1999年度卒業論文)。
その他、千葉県全域では、筆子塚から3,500人以上の手習師匠が確認されています(川崎喜久男『筆子塚研究』多賀出版、1992年)。
3.教育の普及と識字率
これらのデータとは別に、利根啓三郎『寺子屋と庶民教育の実証的研究』(雄山閣出版、1981年)によれば、関東地域の手習塾の就学者は、純農村で2割、商業的農業が展開した村で4~5割、宿駅農村では4割くらいが、おおよそ庶民教育を受けていました。もちろん直接ではなくて間接的に教育を受けたり、日常的に家の中で教えられたり、いろいろなスタイルの教育があるので、残りの人々が全く字が読めない、書けないということではありません。
また、篭谷次郎「幕末期北河内農村における寺子屋の就学について」(『地方史研究』第122号、1973年)には、関西の北河内地方で8割の就学率が示されています。下総国葛飾郡藤原新田(千葉県船橋市)の手習塾安川舎の場合、文化8年(1811)以降、32か村896人が就学し、柏井村では村民の約4割が入門しています(石山秀和「江戸近郊農村にみる手習塾の展開と地域社会」『千葉史学』第35号、1999年)。
まだまだたくさん研究があるのですが、これらを見てくると、江戸時代後期は地域や身分をこえて、国民的規模で教育が普及していった姿がみられます。こうした動向を基礎に、宝暦~天明期(1751~89)、文化・文政期(1804~30)には、江戸を中心に庶民文化が花開きます。
4.江戸の文化
次に江戸の文化について見ます。たとえば、柳亭種彦『偐紫田舎源氏』は38編ありますが、それぞれ1万部売れました。1万部売れるということは、当然のことながら1万人の読者がいることです。恋川春町や山東京伝などの出版物も、1万部、1万5000部などたいへんな売れ行きになります。現在でも1万部をこえるのはたいへんですが、江戸時代に彼らはやってのけたのです。これは彼らの作品がいいというだけではなく、それを理解し、思いを共有する読者が存在したということです。もちろん読者は、武士だけではなく庶民も多くいました。文化5年(1808)江戸に貸本屋が656人いたのですが、仮にこれに100人お得意さんがいたと推定すると、65,600人が常連の読者として存在したわけです(竹内誠『大系日本の歴史10・江戸と大坂』小学館、1989年)。江戸は特に膨大な読者人口を抱えていたのですが、より小規模であっても大坂、京都、名古屋など各地も状況はほぼ同じだろうと思います。身分や地域をこえて国民的文化が形成されたといえるわけです。
5.外国人の評価
最後になりますが、こうした江戸時代の教育状況を、江戸後期から幕末にかけて来日した外国人たちがどのように見ていたのか、追ってみたいと思います。まずイギリス外交官の秘書ローレンス・オリファント『エルギン卿遣日使節録』(岡田章雄訳・新異国叢書9・雄松堂書店、1968年)には、「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に送られ、そこで読み書きを学び、また自国の歴史に関するいくらかの知識を与えられる」(p.162)と、当時子どもたちがみな勉強しているので驚いたことが記されています。
ロシア海軍軍人ゴロウニン『日本幽囚記』(井上満訳、岩波文庫、1946年)には、「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」(p.31)、「しかしこれらの学者は国民を作るものではない。だから国民全体を採るならば、日本人はヨーロッパの下層階級よりも物事に関しすぐれた理解をもってゐるのである」(p.225)と、非常に高い評価が記されています。
アメリカ人のラナルド・マクドナルド『マクドナルド「日本回想記」-インディアンの見た幕末の日本-』(村上直次郎編・富田虎男訳訂、刀水書房、1981年)には、「日本人のすべての人-最上層から最下層まであらゆる階級の男、女、子供-は、紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さずもっている。すべての人が読み書きの教育をうけている。また、下級階級の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わが国におけるよりも広くおこなわれている」(p.124)と、文書社会の到達点が記されています。
黒船で有名なペリーの『ぺルリ提督日本遠征記』(土屋秀雄・玉城肇訳、岩波文庫、1955年)は、本が安く大量に売られていることを驚き、「教育は同帝国至る所に普及して居り」(p.140)と、教育の普及ぶりを評価しています。
プロイセンの画家ハイネ『ハイネ世界就航日本への旅』(中井晶夫訳、新異国叢書第Ⅱ期2、雄松堂書店、1983年)も、子どもたちがしっかりと男女ともに小学校に入って勉強し、読み書きと祖国の歴史を教わっていると書いています。
スイスの全権主任アンベール『アンベール幕末日本図絵』上巻(高橋邦太郎訳、新異国叢書14、雄松堂書店、1969年)は、「成年に達した男女とも、読み書き、数の勘定ができる」(p.88)と、驚いています。
イギリスの初代駐日公使オールコック『大君の都』(山口光朔訳、岩波文庫、1962年)は、「日本では教育はおそらくヨーロッパの大半の国々が自慢できる以上に、よくゆきわたっている」と述べています。
遺跡発掘で有名なドイツのシュリーマン『日本中国旅行記』(藤川徹訳、新異国叢書第Ⅱ輯6、雄松堂書店、1982年)も、旅行で来日したさい、「日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成されている自国語を読み書きできない男女はいない」(p.114)と記しています。
これらは、もちろん誇張もみられますが、全体を通して当時の日本の教育が発達していたことが記されています。当時の先進国から来た人々は、野蛮な日本と思って来て驚いたのだと思いますが、その驚きを素直に書いているわけです。江戸後期から幕末期、日本の教育は来日外国人を驚かすのに十分の水準であったといえます。
おわりに
以上、本日の話を4点にまとめたいと思います。まず第1に、江戸時代は、近代ヨーロッパに出会う前の、長く緩やかな日本型の合理化・近代化の過程として見ることができるということです。すなわち、幕末期以後ヨーロッパの近代化の波が押し寄せる以前の自律的な近代化の過程ととらえうるということです。この過程で現在まで続く日本型社会というものができあがってきたわけです。第2に、その中で特に、私は吉宗の享保改革を江戸時代を二分する改革と位置づけています。この改革により、国家システムは合理化され、国家主導のもとで、国民教育も大いに普及したのです。第3に、そういう意味では、規制緩和、地方分権、首都機能移転などの今日的な政治課題は、明治維新以後の日本が作り上げてきたのではなく、それ以前の江戸時代に生み出されてきたといえます。江戸東京400年は、まさにその過程として重要な意味があるのです。第4に、江戸時代の教育制度について見ると、国民諸階層の教育制度が整備されている。幕府、藩、それから大坂の商人たちが作ったような郷学、町や村の寺子屋など、国民的規模で整備されています。国家が庶民を教育の対象として捉えたことも注目してよいと思います。古代・中世と近世の大きな違いはここにあるわけです。そして国民的規模での社会の近代化・均質化は、明治以後の重要な前提となりました。
大急ぎで話してきましたが、江戸時代の教育が非常に進んでおり、その中で往来物が使われていたことをあらためて指摘し、本日の話を終えたいと思います。(拍手)