講 演: 「絵双六の世界」

 

講 師:黒石陽子 助教授(人文社会科学系 日本語・日本文学講座)
日 時: 平成16年11月1日(火)  会 場: 附属図書館3階AVホール

黒石陽子助教授 --目次--

1. 東京学芸大学附属図書館所蔵の双六コレクションに豊かさと これまでの研究
2. 絵双六の歴史
3. 江戸の双六に見られる特色
3-1. 道中双六
3-2. 江戸の名所
3-3. 和歌・よみもの
3-4. 尽しもの
4. 明治の絵双六
5. まとめ

《参考文献》

 

 

1. 東京学芸大学附属図書館所蔵の双六コレクションの豊かさとこれまでの研究

只今ご紹介に預かりました、日本語・日本文学研究講座の黒石陽子と申します。本日は絵双六につきまして、お話をさせていただきます。よろしくお願いいたします。

 さて、本学附属図書館には、絵双六のコレクションがございます。百点余りのコレクションですが、江戸の終わりから明治にかけてのものが中心となっており、特に近年では教育に関する双六に重点をおいて収集されていると聞いております。現在ホームページでも公開されておりまして、既にご覧になられた方も多いかと存じます。
 このコレクションにつきましては2002年に国書刊行会より出版されました『幕末・明治の絵双六』という大変立派な研究書がございます。その中にかなり本学図書館のコレクションの絵双六が紹介されております。ご執筆になられたのは都立中央図書館にお勤めの松村倫子さんと梅花女子大学で教鞭をとっていらっしゃる加藤康子さんです。加藤さんは本学の卒業生でもあられ、十数年前より、本コレクションの整理、研究をなさってこられました。
 絵双六の世界を解明してまいりますには、絵双六に描かれているもの一つ一つにつきまして、詳細な注釈作業が必要とされます。お二人のお仕事はそれらに先鞭をつけた貴重なものでありまして、本日これから私がお話しいたしますことも、お二人のお仕事に学ばせていただいたことが中心となっておりますことを、最初にお断りしておきます。

 さてそれでは、これからお話いたしますことのアウトラインを申し上げましょう。
 最初に絵双六の歴史とその全体的な特色について簡単にご説明いたします。次に本図書館に所蔵されています絵双六を映像でごらんいただきながら、その特色について具体的に見てまいります。最初に江戸時代のものを中心に、次に明治時代のものを中心に見ていただきます。ここでは江戸時代から明治時代に移り変わって行く中で、絵双六がどのようなものを作り出し、何が継承され、何が新しく生まれてきたかについて、その変化について注目してみようと思います。特に教育という観点から考えてみますと、興味深い問題が見えてまいります。ではさっそくに本題に入っていくことにいたしましょう。

2. 絵双六の歴史

双六の歴史についてはさまざまな文献で触れられていますが、ここでは2004年に文渓堂から刊行された『双六』吉田修氏、山本正勝氏がお書きになったものからご紹介させていただきます。

 最初に双六には二種類あります。一つは盤上双六または盤双六ともいわれるもので、囲碁や将棋、チェスのように盤の上にコマをおいて遊ぶものです。もう一つが絵双六といわれるもので、一枚の紙の上に絵が書いてあり、その上にコマをおいて遊ぶものです。二つのものは全く別のものといっていいものです。今回お話いたしますのは、後の方の絵双六の方です。

 世界の絵双六の始まりについてお話します。
中国では唐の時代7世紀から10世紀にかけて、に選官図(官吏登用を図式化した文字だけの双六)があり、宋の時代10世紀から13世紀にかけてには「西遊記」や「紅楼夢」などの小説を題材にしたものがあったといわれているそうです。13世紀後半から14世紀にかけてインドにもヒンズーの教義を絵双六化したものがあり、チベットには日本の浄土双六の原型を思わせるような輪廻転生をテーマにしたものが存在していたといわれています。
 一方ヨーロッパの方ではイタリアが発祥の地といわれ、15世紀から16世紀にかけて「鵞鳥ゲーム」というものが行われるようになりました。17世紀の初めにはイギリスに紹介され、その後はヨーロッパ全域に流行したのだそうです。この形式はこの後お話する日本の道中双六と大変に似た発想になっています。
 このように絵双六はアジアでもヨーロッパでも古くから行われ、広く遊ばれていました。また遊ぶといっても賭け事に使ったことも多かったようです。

 次に日本の絵双六の歴史についてお話しいたします。
日本にも盤上双六と絵双六がありますが、盤上双六の方が古くから行われていたようです。絵双六について見ていきますと、初期のものは天台宗の新米のお坊さんが仏法の名目を学習する目的で考案された「仏法双六」があります。13世紀後半から用いられたのだろうといわれています。これは絵がありませんでした。一方「浄土双六」というものがありまして、上がりは「極楽浄土」です。これには絵がついていまして、この「浄土双六」から絵双六が発展していきました。
 絵双六が芸術的なものとして発展していったのは江戸時代の後期からでした。この時期には木版による印刷技術が最高水準に達し、錦絵という極彩色の木版画が作られるようになりました。この技術を活かして絵双六も作られるようになり、優れた作品が作られていきます。その実際については後ほどご覧いただきます。そしてさまざまな趣向を凝らした双六が作られました。
 この時期に到達した技術や、双六作りの発想は明治初期まで継承されていきます。しかし明治中期以降になると、木版から石版(せきばん)印刷や活字組版印刷に変わっていきました。これにより木版時代よりも大量印刷も可能になりました。やがて少年少女雑誌の正月号の付録となって、全国各地に広く行き渡るようになっていきました。戦前までの双六の多くは良くも悪くも子供の勉強や道徳教育のサブテキストとして活用されたといいます。

 話は少し逸れますが、寿岳章子氏は中世日本語の語彙についての研究者であられましたが、双六のコレクションもなさっておられ、双六についての言語学的な調査もなさっておられました。昭和49年徳間書店から刊行されました『伝統的な日本の遊び 双六』の中にご自身の体験を書いていらっしやいます。一九二四年のお生まれで、戦前の子供時代、お正月は必ず絵双六で遊ぶのが、当たり前であった。戦後になるとその習慣はなくなっていったといわれています。
 少なくとも戦前までは絵双六が子供の遊びの中で非常に親密で、深い関わりをもち、さまざまな知識や教養を、絵双六を通して学んでいたことが伺えます。

 さて話を戻しますが、大量印刷が可能となった絵双六は広告宣伝メディアとしても活用されるようになり、絵双六の表現方法を用いて広告機能がその中心となって作られるようにもなっていきます。また取り上げる題材も、戦後になりますと、漫画やテレビのキャラクターが中心となっていきました。現在はコンピューターゲームとしての双六も登場しているのだそうです。
 以上のように絵双六は江戸時代の後期に基本的な技術と発想は固まりますが、その後時代の流れとともに、時代を反映した産物として展開していったといえるでしょう。

3. 江戸の双六に見られる特色

それではこれから本学附属図書館所蔵の双六コレクションの中からその中の一部ではございますが、映像でご覧いただきながら、その特色についてご説明していくことといたします。最初は江戸時代のものを中心にご覧いただき、その後明治時代のものを中心に見ていただくことといたします。

 

3-1. 道中双六

 まず、道中双六を見ていただます。道中双六とは名前の通り、旅の道中を双六にしたてたものです。ある地点からある地点までの移動をさいころの目に合わせてコマで進んでいきます。これを廻り双六といい、絵双六の一つの形態です。  江戸時代は大名の参勤交代がありました関係から街道の整備が充実し、五街道をはじめとし、土地と土地を結ぶ道が充実し、やがて庶民の間でも旅が行われるようになりました。道中双六はそうした現象を背景にして生まれてきたものと考えられます。

東海道細見双六
 映像をご覧下さい。「東海道細見双六」とあります。道中双六にはさまざまな街道を取り上げたものがあるようですが、その中でも東海道は大きな割合を占めているようです。  江戸日本橋がふりだしで京都が上がりとなっています。この双六は松村倫子氏の解説によりますと安永から寛政の頃(西暦でいいますと1772年から1801年までの間)に成立したかとされております。道中双六そのものは、もう少し早くからあったらしく、最初はいわゆる白黒のものでした。それが明和2年(1765年)ころから極彩色の印刷である錦絵の技術が改良されてきますと、白黒だった道中双六が極彩色のものになっていきました。右側に「江戸名物吾妻錦画」と書いてありますが、錦絵が江戸の名物として当時売り物であったことが想像されます。
 さらに「細見」という言葉が付いています。これは「詳しく説明している」ということをアピールしているものです。確かにこの双六を見ると、五十三次の地名だけではなく、隣の宿場まであと何里、何丁あるかと書いてありますし、「泊」という文字がいくつかの宿場のところについています。これは一日歩いたら、どこの宿で泊まるのが標準かということが分かるようになっているものだと思います。そしてその宿場の名物が書いてあるところもあります。また宿場の様子も景色や人物が描かれ、イメージが湧くように工夫されています。ちょっとした旅行ガイドのような性格も持ったものになっています。

 さてこうした道中双六は江戸時代の後期にいたるとますます多彩に、工夫を加えて作られるようになっていきました。
次の双六を見てみましょう。
東海道五十三次道中記細見双六 「東海道五十三次道中記細見双六」(図2)です。歌川広重(初代)が画いています。皆様もご存じのように広重は「東海道五十三次」(天保4年刊行、1833年)というシリーズの錦絵で有名な絵師です。これも広重が得意の五十三次を描いて双六にしたものでしょう。さてこれには「道中記」という言葉が使われており、先ほどの双六にもあった「細見」という言葉が付いています。「道中記」とは当時の旅行ガイドブックのことをさしています。当時この道中記は盛んに出版されていました。つまり、旅行ガイドのように情報が豊かで詳しく説明がついているということが、この双六のセールスポイントであるということでしょう。道中双六は大変たくさん作られたようでして、新しく作る時にいろいろと新しい工夫が求められたものと思われます。

擬文字道中双六 そうした工夫の一つとして、旅行ガイドとは全く違った発想のものもあります。「擬文字道中双六(なぞらえもんじどうちゅうすごろく)」です。
 これは宿の名前を各場面の人物の絵の中に書き込んであるものです。たとえば最初のところは「にほんばしふり出し」が人物の姿の中に太い文字で書き込まれています。次の「しなかわ」もそうです。「し」は「志」という字を「し」とよませています。

 ところで江戸時代に大変沢山作られた道中双六ですが、これは明治時代になってもそのままその発想は受け継がれていきます。明治時代の双六については後ほど見て行きますが、江戸時代に作られた双六の発想やスタイルはほぼそのまま継承され、さらに多様になり、時代に合わせた変化を見せていきます。

東海道上り列車鉄道寿語六 ここで道中双六のスタイルが明治時代に継承された一つの例として「東海道上り列車鉄道寿語六」をご覧下さい。明治22年のものです。
 明治5年新橋横浜間から開業した鉄道ですが、次々と鉄道網はひろがっていきました。これを反映した双六となっています。面白いのは振り出しは「乗り始め」となっていて場所は「西京」です。江戸時代の振り出しが江戸日本橋であり、上がりは京であったのですが、明治維新を過ぎて上がりは東京となり、この双六では「新橋停車場」となっています。駅と駅との間の距離が書いてあり、「一リ九丁」などの文字が見えます。また運賃も書いてあるところが面白いと思います。絵柄には洋館が描かれたり、人力車もえがかれています。基本的な発想は江戸時代の道中双六と同じであることが確認できるとともに、新しい文明開化の様子が題材とされていることが分かります。

 

3-2. 江戸の名所

 次に江戸の名所を題材とした双六を二つご覧下さい。
新版狂歌江戸花見双六

 最初は「新版狂歌江戸花見双六」です。日本橋をふり出しとし、江戸中の花見の名所をぐるぐると回って見物し、最後にまた日本橋に戻ってくるという趣向の双六となっています。それぞれの名所のところには「山さくら」「八重」「ひとへ」「彼岸さくら」などと桜の種類が書いてあり、その場所の名物の桜がどのような種類の桜なのかが分かります。これに狂歌を合わせているのが特徴となっています。

 一方次の双六「新版御府内遊興名物案内双六」は江戸の食べ物の名物です。料理屋、蕎麦、ウナギ、せんべいやあべかわ、汁粉などお菓子類、それを商う店の名前がちりばめられています。上の方には江戸で有名な料理屋でありました「八百善」の名前も見えます。「振り出し」は「売り出し」として日本橋の朝市の様子が描かれています。新版御府内遊興名物案内双六
 さて、この双六で注意していただきたいことがもう一つあります。それはこれまで見てきた双六が、いずれも「廻り双六」でありましたが、これは「飛び双六」であることです。
 「廻り双六」とは振り出しでさいころを振り、さいころの出た目だけ先に進みます。そこで何か指示がある場合、たとえば「一回休み」とあれば、そこで一回休みます。また「二つ戻る」とあれば二コマ戻ります。それに対して「飛び双六」とは振り出しのところでさいころを振り、出た目について振り出しのところに書いてある指示にしたがってコマを置きます。たとえば「新版御府内遊興名物案内双六」でやってみましょう。
 さいころの目が「一」の場合、指示は「立場(たてば)」とあります。そこで「立場」にコマを進めます。そこでまたさいころを振ります。この時も「三」が出れば「ぎおん」に飛びます。さらにここには「三」「四」「五」の数字しかありませんから、もし「一」「二」「六」が出た場合は、他の人が一回りさいころを振る間一回休むということになるのでしょう。
 さて「ぎおん」に飛んでここで「四」が出れば「あふぎや」へ。さらにここで「一」がでれば「八百善」へ。そしてこの「八百善」で「四」が出れば上がりとなります。このような形で上がりに辿りつくのが、飛び双六です。

 

3-3. 和歌・よみもの

 次に和歌やよみものを題材とした絵双六を見てみます。

百人一首双六帖 最初は「百人一首双六帖(ひゃくにんいっしゅすごろくじょう)」というものです。現在でも百人一首は高等学校の古典教材の一つとなったり、カルタの遊びや競技として、有る程度行われております。けれども江戸時代は和歌の教養の基本として、現在よりももっと深く浸透していました。この遊び方については右下に説明されていますので読んでみます。
 

 「振り出し六人の内にてたとへは 松一をふれは権中納言定家○来ぬ人をまつをの浦の夕なきに は印に下の句 やくやもしほの身もこかれつつ○其前にて竹をふれ 大僧正慈円○おほけなくうきよの民をおほふかな る印下の句 我たつそまのすみそめの袖 へうつる 皆それをなそらへしり給ふべし」

 これに基づいてどのようにコマを動かすかを考えてみたいと思います。六人で行います。まず振り出しのところでさいころを振り、出た目が「一」ですと松一の定家のところにいきます。ここに書かれている上の句「こぬ人をまつほのうらのゆふなぎに」を読み、その下の句を捜すことになります。左下にヒントがあり、「は」とあります。これは「は」のブロックにありますよという指示です。そこで「は」のブロックにいき、六つの下の句の中から捜します。「は」のブロックの左下に「やくやもしほの身もこがれつつ」があります。もし分からない場合、恐らく六人のメンバーで教え合ったりしながら正解を捜していったのでしょう。そしてそのブロックにコマをおいて、次のさいころをふります。

 もう少し見てみましょう。最初にもし「二」が出たとしましょう。すると慈円の「おほけなくうきよの民をおほふかな」となります。そこでその下の句を捜しますが、またヒントみると「る」とあります。そこで「る」のブロックにいき、下の句「我たつそまのすみそめの袖」を見付け出します。こうしてブロックを移動してはさいころをふり、出た目の歌人の歌の上の句を読み、下の句を捜すことを繰り返していく、飛び双六です。

 右下説明の最後のところに「上りは天智天王と持統天王左右より和歌三神へ上る也」とありまして、下の句を捜しながらいろいろブロックを移動しているうちに一番上の天智天皇、持統天皇のところにいきつけば上がることができるという仕組みのようです。
 これは年長の者が年少の者といっしょにやることで、初心者には一つ一つ教えて確認しながら進めていくことができたでしょう。繰り返しやっていくうちに、どの歌人の上の句がどの位置にあり、その下の句はどのブロックのどこにあるということを、覚えていったのではないでしょうか。こうして百人一首を自然と覚えていくことになったのだと思います。
 よく知っている人から少しずつ教わり、繰り返しやっていくことで、次第に自分自身で覚えていく。一人でやっても、数人でやってもそれぞれの楽しみ方ができて、成果が自分自身でも確認でき、自信もついていく。大変優れた教具になっているように思います。  どちらが早く取ることができるかというカルタ形式よりも柔らかいやり方であるように思えます。

犬のさうし鶯梅双六
 さて次にご覧いただきますのは江戸時代後期の大衆読み物を題材として作られた絵双六です。まず「犬のさうし鶯梅(おうばい)双六」ですが、曲亭馬琴の長編読本『南総里見八犬伝』を題材としています。『南総里見八犬伝』が絵入り読み物である合巻になりまして、さらにそれを題材として登場人物を当時人気の役者の似顔絵にした錦絵が作られました。それをさらに絵双六にしたてたのがこの絵双六です。役者の似顔絵というのは、現在でいえば人気スターのブロマイドのようなものです。江戸時代の半ばから作られるようになっており、江戸時代の終わりには、美しい錦絵として大量に作られ、販売されました。この絵双六の似顔絵を担当している二代目歌川国貞はこの時期の代表的な絵師です。この絵双六ではこれだけの役者の姿を一同に見られることに大きな魅力があったと思われます。

児雷也豪傑双六

 次に「児雷也豪傑双六」をご覧下さい。これも幕末の絵入り読み物である合巻の「児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)」が題材となっています。この児雷也も大変人気のあったものです。これは先ほどの双六と違い、役者の似顔絵にはなっていないといわれています。以上の二つは飛び双六です。

 さて読み物に取材したものとして最後に「五十三駅滑稽膝栗毛道中図会」をご覧下さい。
五十三駅滑稽膝栗毛道中図会 十返舎一九の『道中膝栗毛』は弥次喜多道中で有名なお話ですが。江戸時代末期に大変な人気がありました。初編(『浮世道中膝栗毛』享和2年(1803)から書き始まりますが、読者の人気に答えて次々と書き続けて長編となっていきました。必ずしも最初から全ての構想が立っていたわけではありませんでした。ですから初版の段階では道中も東海道五十三次を順番にめぐるという筋にはなっていません。
 しかしこの絵双六では五十三次を順番に行く形をとっておりまして、それに合わせて原作に書かれている順番を変えたり、アレンジしたりしております。絵も原作を踏まえていますが、文章も利用していると解説を書かれた加藤康子氏が指摘されています。
 これはこれまでの飛び双六ではなく廻り双六です。ただし最初に見ていただいた道中双六のような旅行ガイドのような意味はなく、あくまでも『膝栗毛』の話を双六形態で楽しむところに意味があったと思われます。

 江戸時代のものを大分ご紹介してまいりましたが、次に歌舞伎に取材した絵双六を三点ご覧いただきましょう。いうまでもなく、歌舞伎は江戸時代の人々にとって最大の娯楽でしたので、当時の文化に及ぼした影響は大変大きなものでした。まずは役者の容姿の美しさや魅力は人々を魅了しました。先程も役者似顔絵の絵双六を見ていただきましたが、歌舞伎に直接取材した絵双六は江戸時代後期になりますとことごとく似顔絵になってきます。これは明治に入ってもしばらく続いていきます。話は少し逸れますが、役者の似顔絵はその後写真技術が発達してきますと、その役割を終えて次第に写真のブロマイドへと移っていきます。

忠臣蔵出世双六 さて最初のものは「忠臣蔵出世双六」です。ご存じのように大石内蔵助以下四十七人の赤穂浪士が主君の敵吉良上野介を討った事件を脚色したのが『仮名手本忠臣蔵』です。これは人形浄瑠璃として大坂の竹本座という劇場で上演されたました。のちに歌舞伎となり、沢山の名優がいろいろと工夫をして、演出を作りあげていった作品です。江戸時代には知らない人がいないくらいに有名な作品でした。
 さてこの絵双六ではその『仮名手本忠臣蔵』のさまざまな場面を話の順ではなく、場面ごとに散りばめるように並べています。そしてこれも飛び双六で、あちこちに飛びながら上がりとなる形式です。なお上がりのところの顔は役者似顔絵になっていることを松村倫子氏が考証されています。五代目市川海老蔵が左下、真ん中が四代目中村歌右衛門、右側が十二代目市村羽左衛門です。いずれも当時の名優です。

大日本六十余州一覧双六

 次の「大日本六十余州一覧双六」は日本地図が扇によって図式的に配されて、その国の名が書かれ、その土地に因んだ小説や歌舞伎に登場する人物などが描かれています。大変手の込んだ、謎解きの趣向になっているようで、当時の文化の状況を解明する上でも貴重な作品の一つといえます。

山門豪傑双六

 「山門豪傑双六」という絵双六が次のものです。これは「山門」がキーワードなっています。現在見る歌舞伎の舞台でも「青砥稿花紅彩画」通称「白波五人男」で弁天小僧菊之助が大屋根の上で切腹し、がんどう返しという舞台転換をしたあとで、舞台の下から山門がせりあがって来て、盗賊の五人男の頭領であります日本駄右衛門が出てきて大見得を切るというとこころが上演されますが、このように山門を舞台として芝居が展開する場面を集めて構成したのが、この双六です。これも飛び双六となっています。

 

3-4. 尽しもの

玉尽年玉寿古六
 江戸時代の最後のものとして「尽しもの」を一点ご覧下さい。「玉尽年玉寿古六」です。「もの尽くし」の発想にたったもので、「玉」のついたいろいろな言葉を集めています。「玉」がついていれば、いろいろと属性の異なるものもすべて取り合わせているところに面白さがあります。最後に上がりは「年玉」となっています。この中に「善玉」「悪玉」というのがあります。これはあとで明治の双六にも出てきますので、ちょっと注意してご覧下さい。
 この発想を継承している明治期の絵双六を見ていただきましょう。「流行車尽し廻り双六(明治)」です。これも本ものが展示されていますので、どうぞ後ほどご覧下さい。「車」尽くしになっておりまして、文明開化にともなって新たに登場したものもありますが、同時に古くからある水車やうし車、糸車などもまじっています。

 以上、あらあらではございますが、江戸時代の絵双六を見ていただきました。

 

 

4.明治の絵双六

 それでは次に明治時代の絵双六を見ていくことにいたしましょう。明治時代のものは基本的には江戸時代に作られた絵双六のパターンを全て継承していきました。しかしそこに新たな時代の文物や、知識、また時代の求めていたものがどんどんと取り込まれ、次第に変化をしていきます。また印刷技術が木版印刷から新しい技術である活版印刷が導入されたことにより、摺られた版面の変化や、印刷される分量が大幅に増えることなどがあり、絵双六の質感にも変化がみられます。
 さらに江戸時代のものは、子供向きということは明確に打ち出されたものはあまり見受けられず、大人も子供もいっしょになって遊んでいたように思われる内容ですが、明治時代になると、明らかに子供を対象として作られているという側面が次第に強くなってくるようです。教育という意識が明確な形で現れてきているのが明治期の双六の大きな特色といえるようです。
 明治以降の絵双六は、広告としての機能も持つようになり、商店の品物の宣伝などとしても活用されるようになっていきました。その意味では絵双六の持つ、メディアとしての機能を最大限に活かす姿勢が出てきたといえるようです。
 これから本学附属図書館所蔵の明治期の絵双六を見ていただきますが、特に教育面の観点から選んだものを中心に見ていきます。なおこれからご覧いただくものについてはほとんどが展示されておりますので、そちらを是非ご覧下さい。

新版春遊子宝双六

 「新版春遊子宝双六」は子供のあそびを集めた廻り双六です。これは今回のポスターや絵はがきにもデザインされていたものですが、当時の子供の遊びを知る上で貴重な資料となっています。上がりのところでは大黒様が子供たちに宝引き(この中に当たりくじが一つあるくじ引きのようなものですが)をさせています。これはお正月の遊びを表しているものです。

教育善悪子供双六 次は「教育善悪子供双六」です。善玉と悪玉がいて、これは先ほど江戸時代の「玉尽年玉寿古六」に出てきていましたが、子供の側にいまして、悪玉が側にいる子供は悪いことをしている。善玉が側にいる子供は善いことをしているという構図になっています。この善玉、悪玉は石田梅岩が江戸時代の中期に起こした心学思想にもとづいたもので、庶民に大変浸透したといわれるものです。既に江戸時代中期の黄表紙の『心学早染草』にこの善玉と悪玉が人にとりついて、人の行動を決めていくというパターンが使われています。この絵双六の発想もそうした江戸時代からの流れを引いていると考えてよいでしょう。振り出しのところに「教育善悪図会」とあり、「愛児 小児(こども)はしら糸のごとくで赤くも黒くもそまりやすいものだからなんでもよい方へしつけねばなりません」とあり、子どもをしつける上で、善悪をはっきりと具体的に分かるように具体的な事例を絵にして、側に善玉、悪玉を描いて、いっそう分かりやすくして価値判断を身につけさせる方法をとっているように思われます。しかし大人の目からみると悪いことをやっている子どもの姿が意外といきいきと魅力的に見えるように思えますが、いかがなものでしょうか。これは飛び双六になっています。
 ところで、本学附属図書館の一部の職員のみなさんが、本日のこの話に先立ちまして実験的にこの絵双六をやって下さったのですが、その感想をいただき、なるほどと思いました。これは飛び双六なので、あっちこっちに飛びながら進むのですが、必ず「善」から「上がり」に続くようになっているのだそうです。また善だけでも悪だけでも「上がり」にたどり着けないように作ってあるということです。またコマが移動するごとに、そこに書かれている文章を読みますので、いろいろ考えさせられるとのことでした。
 絵双六はコマを移動させるごとに、そこに書かれた情報を自然と読むことになります。したがって知らず知らずのうちに、内容が摺りこまれていくという要素があったと思います。そこに絵双六を教育として活用できる要素があり、それをどう活用するかが、その時代の教育姿勢と深く関わっていたといえるでしょう。

小学教授双六

 次に当時の学校教育における教材であった掛け軸を絵双六化したものを見てみましょう。「小学教授双六」です。これは当時の教材がどのようなものであったかを研究する上で非常に貴重な資料ではないでしょうか。

小学校尋常科高等科修業寿語録
 「小学校尋常科高等科修業寿語録」は明治24年に刊行されたもので、当時の尋常科、高等科のシステムがよく分かるという点で貴重な資料といえます。一方当時の子どもは、これで遊ぶことによって学校生活がどのようなものであるのかを知ることが目的だったのでしょうか。確かにこれから始まる学校生活には分からないこと不安なことが多々あったでしょうから、これで遊ぶことによって子どもなりに学校生活についての心構えを作るということがあったのかもしれません。「修業」という言葉からは学校生活が単に楽しい所ではなく、厳しく修練し、勉強する場という意識が強いということでしょうか。

教育勅語双六

 さて次は「教育勅語双六」です。加藤康子氏の解説によれば、長年教科書出版にたずさわっていた金港堂がその実績に自負心をもって、明治23年に出された教育勅語をわかりやすく親しみ易い絵双六として啓蒙しようとしたものとして説明されています。教科書を作っていた出版社が作ったことからして、明確な啓蒙意識が見られ、教育のために絵双六を活用できるとして積極的に利用していたことがうかがえると思います。

 さてこれまで見てきたものは、絵双六として単独に作られたものでしたが、明治期になり、雑誌が刊行されるようになってきますと、付録としての絵双六が登場するようになりました。雑誌の付録ですから、これは一層多くの人々に広まります。この傾向はその後、大正昭和へも引き継がれていきました。
明治少年双六二十四時家庭双六少年歴史地理双六
 「明治少年双六」は巌谷小波が出版を続けていた『少年文集』(明治31年)の付録。「二十四時家庭双六」は婦人雑誌『婦人世界』(明治45年正月)の付録です。「少年歴史地理双六」は『少年文集』(明治四十三年正月)の付録です。いずれも廻り双六です。

世界第一勉強家の親玉大阪平民館発行教育双語六奥奉公出世双六 さて女性の生活が「二十四時家庭双六」で取り上げられていましたが、同じ女性をとりあげるのでも「世界第一勉強家の親玉大坂平民館発行教育双語六」はまた違った趣きを持ったものになっています。江戸時代に出世双六といわれる一類がありました。その一つが本図書館にありますので、それを先に見てみましょう。「奥奉公出世双六」です。これは武家の奥方に仕える女性の出世を題材とした飛び双六です。こうした発想を受けて「世界第一勉強家の親玉大坂平民館発行教育双語六」も出来てきたものと思われます。さまざな階層の女性の生活が織り交ぜてあり、当時の世相を反映したものとなっているようです。

大日本物産双録

 最後に二つの双六を見ていただき、終わりにしたいと思います。  「大日本物産双録」です。これは道中双六に見られたその土地の名産を記すものではなく、国内の産業の躍進ぶり示したものとなっています。廻り双六ですが、とくに途中で何か指示があるところはありません。各地の産業の実態を示すことが一番の目的だったのでしょうか。

俳優力士睦合双録 「俳優力士睦合双録(はいゆうりきしとりこみすごろく)」は明治17年に作られたものです。歌舞伎も相撲も江戸時代に興行として定着し、盛んになりましたが、明治という新しい時代を迎え、その生き残りが問われることになりました。相撲は明治一七年に天覧相撲が催されたことによって新たな展開をみることになりました。
 歌舞伎は明治17年には九代目市川團十郎が政治家や故実家と「求古会」といういわば研究会を結成し、学識者や権力者との関係を強めていく時期にあたります。そして明治20年4月には歌舞伎も「天覧劇」が実現し、天皇、皇后、ほか宮中の人々が歌舞伎を観覧するという画期的な事件が起こり、歌舞伎の社会における位置づけは大きく変わっていくこととなりました。その意味でこの絵双六は当時の相撲界と歌舞伎界の大きな変化の時期に出された双六という意味で重要な資料といえるでしょう。
 また絵を見ると歌舞伎役者が力士の姿をしており、恐らく似顔絵になっているものと思われます。全体としては歌舞伎役者の方がたくさん描かれています。

5. まとめ

以上見てきましたように、絵双六は、社会状況、時代状況と極めて密接な関係をもって作られてきたものであるといえます。
 一つ一つの絵双六を丹念に検討して行く中から、さらにもっとさまざまなことを掘り出していけることと思います。それが絵双六の大きな魅力の一つなのです。
 以上で私の話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

≪参考文献≫

  • 『双六(すごろく)』吉田修, 山本正勝 文渓堂, 2004
  • 『幕末・明治の絵双六』加藤康子, 松村倫子 国書刊行会, 2002
  • 『すごろく1 (ものと人間の文化史:79-1) 』増川宏一著. 法政大学出版局 1995
  • 『すごろく2 (ものと人間の文化史:79-2)』増川宏一著. 法政大学出版局 1995
  • 『双六 : 伝統的な日本の遊び』小西四郎,寿岳章子,村岸義雄 徳間書店, 1974